外側から見てみたい

地球に生まれて暮らして早幾年

はてなブログっぽい文体

はてなブログを始めて、最初の方はですます調で書いていたけれど、だ・である調に変えてみた。 特に理由はないけれど。
ですます調は敬体、である調は常体というらしい。
その言葉は国語で習いましたかね?記憶にない…
常体に変えたことで何となく無意識に、はてなブログってこういう文章だよね感が頭の片隅にいるまま文章を書いている気がする。
読み返しても何だかデ・ジャ・ヴ… 
まあ、オリジナリティのある文章なんてそう簡単に編み出せるはずがないので、そりゃあそうでしょう。
でもですね、昨日、インターネットから人の作ったり情熱的なコンテンツは絶滅したと嘆いたのですが、この自分の常体の文章こそ情熱ゼロじゃん。冷静ぶってるだけでダサい。
誰のためでもない文章で気取るのはやめる。
これ今月の目標にしよう。

ROTTENGRAFFTYがエモすぎる

ROTTENGRAFFTYがエモすぎる。
先月のこと、私は自宅でロットンの主催イベント、響都超特急の速レポを追いかけていた。
ロットンも25周年かぁ。25年も何かを続けるってすごい。私はこの17
年で3回も転職している。

ROTTENGRAFFTYとの出会いは私がMUCCのファンで夢烏だったことがきっかけ。

ムックは6月9日を「ムックの日」ロットンは6月10日を「ロットンの日」としていたことに由来する、ロットンムックのツーマンライブで初めてロットングラフティーのライブを観た。
最高に楽しかったことを強烈に覚えている。

音楽のジャンルとしては当時もわりと何でも聴いていたけれど、ライブに行くのはもっぱらいわゆるヴィジュアル系ばかり。
でもムックは自分たちを“ヴィジュアル系バンド”と言いながらジャンルレスな対バンライブをガンガンに行っていたので、彼らのお陰で色々な音楽を生で体験することができたのはとても良い経験だった。

ムックロットン、さっき検索したら2015年らしい。8年も前のようだ。ヒェ。
MUCC × ROTTENGRAFFTY、合同イベント"ムックの日とロットンの日"のゲスト・バンドに[Alexandros]、cali≠gariが出演決定! | 激ロック ニュース

激ロックにツーマン発表のニュース残っていた。このフライヤーものすごく覚えている。かわいい。
このイベントすごく楽しかったな。

ムックの“蘭鋳”のお客がしゃがむっていう曲中イベントの時にロットン兄さんたちが乱入してきてムックメンバーの口に食べ物を押し込むといういたずらが行われたのだが、響急でもそのやりとりがあったって速レポに書いてあってもうなんか破顔してしまった。
一生やってほしい。
ムックロットンの思い出としてはナオキさんがムックのお客さんたち(圧倒的に女子が多め)に「お前らどうせノブヤ!なんやろ、だーれも俺と目ぇ合わへん!」みたいなイジリをしてきてすごく楽しかった。笑
ナオキさんすみません、私たち上手にいるムッカーはけっこう大勢が、かずおみさん!かわいい!でした。笑

何年も前のことなのに割と覚えているなあ。
根暗だから楽しかったことってすぐ忘れたりする方なのに。

2024はロットンが25周年イヤーだとか、そういえばかずおみさんもうライブで観られないんだなあとか、MASAHIKOさんが正式加入になってこのバンドは止まらないんだなあとか、色々ニュースを見ていたら無性に聴きたくなって仕事中に聴きまくりながら年末を過ごしていた。
そうしたらとてもライブが観たくなって、東寺とビルボードBlu-rayを買って正月休みに見て過ごした。
エモすぎる…
特にビルボードの「70㎝四方の窓辺」は音源だけで号泣してしまった。こんなにぶっ刺さる音楽はなかなかない気がする。
おみさんと松原さんの対談を後追いで読んで、曲の背景みたいなものに触れて更に泣いた。
音楽を聴いて泣いたのが久しぶりすぎたので自分にびっくりした。
まだ音楽で泣ける自分がいたことに驚いたけど、なんだか嬉しかった。

そして、本日、武道館のBlu-rayをゲットして観たのだが、ものすごい泣いたのでぐったりしている。
ステージの5人の表情が最高すぎるのに加えて、合間合間に映るファンのみんなのいろんな感情が爆発してる姿がものすごくよくて、たまらん。最高のライブ。
MCで語られる彼らの言葉は彼らの音楽と完全にリンクしていて、人生が音楽に全部乗ってるバンドなんだなって思った。
しかも、このバンドの音楽は年を重ねても瑞々しくて、良い意味で青くて胸がギュッとなる感覚がずっとある。
自分も40代になった今、彼らの音楽は更に眩しい。

何かのファンでいることに必死すぎて、私は自分の人生を全く頑張らなかったから後悔している。
他人の生き様は私の人生ではないのに。
もう遅いのか、まだ間に合うのかわからないが、自分の人生大事にしないとな。

下手でもいいから情熱を聴かせてくれ

そんなこと言ってももう仕方ないけど、浅くて味の薄い雑音が多い。

数か月前のことだが、昼時の喫茶店で私より少々年嵩の男性陣が、昔はテレビのスピーカーにラジカセ当てて音楽番組録音したよねーって話で盛り上がっていた。話に加わりたいほど盛り上がっていた。笑
好きな曲ばっかり集めて曲順決めてダビングしてお気に入り曲集のカセットテープ作ったり、更にはそのテープを友人と交換して聴き合ったりして、懐かしい。
そういう誰のためでもなく自分のための楽しみを何時間も夢中でやってた。

今は自分もサブスクリプションで音楽を聴くことがほとんどになってしまった。
聴きたいと思った曲をいつでもすぐに聴けるアプリケーションはとても便利で有難い。
CDを買うのは好きなミュージシャンの新譜くらいだろうか。

目的もなくふらりとCDショップに入っておススメされているCDを視聴機で聴いて新しい音楽を見つけるの好きだったな。
お店として推してるやつだけじゃなくて、店員さんの超独断と偏見の激推しコーナーにもお世話になった。
おかげでいったいどこの誰なのかさっぱりわからないし今も音楽を続けているのか調べようもない人たちの音源をけっこうたくさん持っていて、中にはお気に入りの音楽もあるのでいまだに聴くことがある。
どこの誰が作った曲なのかまったくわからないのに。
どこのどなたか存じませんがあなたが20年くらい前に作った音楽、今も聴いている人間がこの世にはいます。ありがとうございます。

もっぱらSpotifyを利用しているので主にSpotifyの話だが、月額今の数倍にしてもらっても構わないのでアルゴリズムによる薄くて安直なおススメをしないでほしい。
なんなら音楽好き社員のレコメンドとかなら見たいかもしれない。

私は本気で情報疲れを起こしているようだ。そしてもうそれをどうやったら回避できるのかも見失っている。
薄いたくさんの情報はほとんどが不要なのに、それらを量産するシステムを頑張ってい作っている人がいるのだと考えると、なんという虚無。
なぜインターネットの海からは人の作った情熱的なコンテンツは絶滅してしまったのだろうか。
そもそも“無料”が無理ですよね。無料=価値が低いと思われても仕方がないっていうことみんな忘れている気がする。怖い。
私はこのインターネットの
腐海とどう付き合っていけばいいのかがさっぱりわからない。

えっ、2024年…?という驚きと、読書は逃げなのか救いなのか学びなのかという話

今日は鏡開きですね。
我が家は七日に神棚の餅も下げて七草粥に入れてしまうスタイルなので特に何もしないのですが。笑
祖母が健在だったころはお汁粉作ったりしていたな。

さて2024年。
2024年という字面を見たら唐突に「わあ、未来だ」と思ってしまった。

子どもの頃、2020年は完全に未来だと思っていた。
車輪のない車的な乗り物がレールに沿って自動で走ったり、ゴミなんかは浄化システムと自動リサイクル装置で再生・循環されて環境問題は解決して、空気も空も澄んでいて、地球のことも解明されて自然災害のリスクは回避できる生活環境が構築されて、人類同士の争いも終結した、穏やかな世界が待っていると思っていた。(私の頭の中の21世紀は21エモンの世界なのだが)
実際は全くそうなっていなくてそれはそれでガッカリしているのだが。
世界が刺激的過ぎて驚きを通り越して疲弊しているので、私はそういう刺激のない平坦な世界でもすんなり生きていけそうだと今のところ思っている。
でもそんな世界になったらなったで人間というのは徐々におかしくなっていってしまうのかな、という不安を抱くのは、伊藤計劃の「ハーモニー」のせいだな。
久しぶりに読もうかかな。
昨年は久しぶりに「虐殺器官」を再読したら、何これ、預言書…?とゾッとした。ジョン・ポールはもしかしてこの世界にも既に実在している?なんて考えてしまう程度に、この世界の物語な気がした。
虐殺器官の舞台は2027年とかでしたか…?近いな。

私は30歳くらいまでSFに興味がなくて、警察小説とかミステリとか時代小説とか“この世界”と地続き的な物語ばっかり読んでいたのだが、当時ドはまりしていた田中圭が舞台に出るというので銀河英雄伝説を観劇前に読破したのをきっかけにSFにも興味を持つようになって読むようになった。

余談だが田中圭ヤン・ウェンリーはめちゃくちゃに良かった。機会があったらオタクは全員見てほしい。
間宮祥太朗のラインハルトと橋本淳のキルヒアイスのコンビネーションも最高だった。

舞台 ・銀河英雄伝説 | 初陣 もうひとつの敵 オフィシャルサイト
銀河英雄伝説はSFというか、スペースオペラというのですかね?歴史小説のような所がすごくおもしろかった。

人類は別の惑星に移り住んでも争うんかいという。
とても人類らしい物語だなあと思った。

英伝で味を占めた私はまず「華氏451度」を手始めにレイ・ブラッドベリを読みまくった。
ブラッドベリの物語は生きる刹那や寂しさもあるけれど、暖かくて希望があって大好きになった。
華氏451度」も大好きな一冊だが「宇宙船」という短編を読んだ時には号泣した。
こんなにまっすぐで温かい物語ってほかにあるかな。自分も誰かがくれるささやかな幸せを心の底から喜べる日々を送りたいなと思った。
創元SF文庫の「ウは宇宙船のウ」の中に収録されているのでめちゃくちゃにおすすめしたい。

ウは宇宙船のウ【新版】 - レイ・ブラッドベリ/大西尹明 訳|東京創元社

かと思えばSFは結構な勢いで絶望も突き付けてくる。
先にも書いたが伊藤計劃の「虐殺器官」なんかはディストピアだしいわゆるメリーバッドエンド。外側からは完全なバッドエンドだが、主人公のクラヴィスにとっては世界が壊れる音は自分が選んだ道なのだから満足してるっぽい…?

SFなのかミステリなのかよくわからないけれど、変な物語もたくさんある。
私が偏愛する作家のひとり、殊能将之の「黒い仏」なんかはキャッチコピー?が「名探偵は蚊帳の外」だった。そのフレーズの通り、主人公が謎解きを披露して解決したと思ったら、実はその裏側で人智を越えた存在たちが壮絶なバトルを繰り広げていたというとんでもない終わり方で、ひっくり返った。
「キマイラの新しい城」とかももう腹がよじれるほど笑った。M1優勝できるんじゃないかなくらいのすれ違っているのに全てが嚙み合っているコントみたいな物語。
例えば仕事で全く話が通じない事象が起きて、なぜかこちらに非がある雰囲気に上司が持って行こうとするような時には、私は殊能センセーの物語を体験しているので「これはここの世界ではなく、彼の地でなにか妙な事件が起きているのやもれぬ」などと心の中で考えることで冷静になったりする。

私の毎日なんて生まれてからずーっと平凡なのでたくさんの物語が結構生き方とか、考え方とか、戦い方も。やり過ごし方も、逃げ方とかも教えてくれているなあと思う。
「読書嫌いのための図書室案内」の藤生さんもそんなことを言っていた。

読書嫌いのための図書室案内 | 種類,ハヤカワ文庫JA | ハヤカワ・オンライン

自分は多読な読書家ではいけれど、読書って楽しいなあって、最近改めて噛み締めている。
今年最初はこれも再読で、法月綸太郎先生の古典ミステリ愛が大爆発したSF作品の「ノックス・マシン」を読んでいる。
刊行された時以来の再読だけど、表題のノックス・マシンが記憶の数倍素敵な話でふるえている。
元の世界には戻れないと絶望した主人公チンルウにノックス神父が言った「世界はそううやすやすと枝分かれするようなものではない」という強い言葉が2024年最初に私の背中を押してくれたような気がしている。

サヨナラ2023年

晦日です。

紅白の10-FEET素晴らしかったし、蘭ちゃんがキャンディーズの曲歌ってくれたので何だか今は思いの外穏やかな気持ちです。

 

今年は前半のことを全く覚えていない。

何故なら下半期がぼんやりとした暗黒期だったので。特に大きな事件があったわけでは無いけれど、街の人出が増えるにつれて自分の気持ちがゆっくり沈没していくような感覚。

辛かった。

赤の他人がそこかしこにいて大声で騒いでいる世の中は。

辛すぎたのでずっと続けていたこと(主にSNSとあまり合わない友人との関係)をやめて、新しいこと(このブログとドラム)を始めてみた。

人生も折り返し地点まで来るとそう日々は変わらないが、ずっとやってみたかったことを2つ始めたので上出来だと自分に言おう。

よくやった。

来年もよろしく私。

 

 

今年最後の献血

昨日、今年2度目の献血をしてきた。
できる時には献血をするようにしている。
私は適度な体格で血管も太くて丈夫、血液の比重もいつも問題なしなので、微力であるのは重々承知だが、できる限りは年2回の400ml献血を続けていきたいなと思っている。

最近よく考えることがある。どんなテクノロジーが進化しようとも人間がやらないとできないことの方が生活に直結している。
食物とか、医療とか、福祉とか、介護とか、人が人にかかわることとか、生活で必要物品を製造するすべての工程、人力こそが不可欠だ。
でも自分の仕事が人の生活に直結しているかというと、その辺りの程度としては低い方だ。
それなので、せめて献血くらいはしようと。

近頃は、人の楽しみで特権だったはずの意匠的なことを人工知能にやらせようとする人が出てきているので、例えば建物の意匠設計と構造計算などは機械がやっちゃう未来なのかもしれないけれど、人力がなければ建物は建たない。
数年前、八重洲の駅前のビル工事を見ながら通勤していたが、高い高い足場の上でクレーンで吊るされた大きな硝子を人が受け取っていた。
当たり前のことなのだが、このどデカい建物、人が組み立ているんだよなあ!と衝撃を受けた。
世の中のほとんどの物もは人間が手で作っている。
本当に色々な職業と労働の種類があるので挙げきれないけれど、例えば、少し前にテレビで見たのが、山奥の源泉を温泉宿街まで引くルートのメンテナンスをしている湯守の方々。皆さん、ほかに職業を持ちながら、湯守の仕事もこなしていた。
正直、某巨大IT企業を立ち上げた外国の人を教科書に載せるより、名もなき湯守の方々の仕事を子どもたちに伝えてほしい。

今年は何だか「労働」が価値のないものかのような意見を聞く機会が多かったせいもあり、自分にとっての労働や奉仕について、考えることが多かったように思う。
労働への対価が成立してこその労働だというのはもっともであるし、自分が受け取る対価の価値を上げたいがために自分は試行錯誤もする。
私は「仕事」が好きだ。働くことは楽しいと思う。
だから「労働は悪」のような端的な意見は私の心を暗くさせる。
労働はなぜこんなに憎まれる存在になってしまったのか。

こういう意識で生きるには、実は今の環境は非常に苦しい。
来年は働く喜びを共有できる環境へ行きたいというのが目標だ。
欲を言えば健康体の人間が献血をしたくらいで「めっちゃえらいね」とか言われない、自分にできるボランティアが当たり前の世の中になるといい。


PERFECT DAYS

私の一日はまずロフトベッドの上で目を覚ます。
ロフトの下には2台の本棚と、本棚に入りきらない本が積んである。
起き上がって掛け布団を半分に畳み、片方に寄ったシーツを直してベッドを降り、そして雨戸を開ける。古い家なので大きな音が鳴らないようにそっと。
この時期はまだ真っ暗で星空が見える日もある。
斜向かいの家の東側の小窓に朝焼けが反射している日は朝がとても眩しく感じる。

私はよく上を見る。今日の空を見る。背の高い木を見る。ビルの屋上を見る。
よく晴れてた日、曇天の日、雨の日、風が強く吹く日、空や風景はいつも違う。
たまにこの空をずっと覚えていたい、そんな日があるけれど、時は過ぎるし明日はやってくる。

ヴィム・ヴェンダース役所広司を主演に据えて映画を作るというニュースを見た時からとても楽しみに待っていたPERFECT DAYSを観てきた。
そこには私が毎日見ている東京が描かれていた。美しかった。驚いた。私が生きている世界はクソかもしれないけれど、どうやら美しいらしい。

私は日本生れ日本育ちの日本人なので欧米人の抱く幻想にも似た日本が受け容れられないことがよくあるけれど、この映画にはそういった違和感がなかった。
とても私的な感想として、けっこう多くの人がこれは自分の物語だと感じるのではないかな。
私は、平山の繰り返す日々を観ていくうちに、これは私の物語だ、と思ってしまった。



___ここから映画の具体的なシーンのことを書きます。

このPERFECT DAYSという映画が、私の、そして今を生きる人々みんなの物語だと感じたシーンが、家出した姪っ子を迎えに妹が平山の家に来たところ。
映画の中では詳しいことは何も語られていなかったけれど、裕福な暮らしをしているらしい妹(運転手付きの高級車で来ていた)と、平山は疎遠になっていて、「もうほとんどわからなくなっているけれど、たまには施設にお父さんに会いに行ってあげて」という妹に、頑なに首を横に振る平山。
これだけのやり取りで平山の過去には家族との間に何かがあり、それが平山の傷になっているのだろうということがわかった。
いい加減な年若の同僚に怒気を抱くわけでもなく、毎日淡々と安定した心で過ごしているように見える平山が、本当は、心に傷を持っているということ。この傷は、人ならば人と関わる中で大なり小なり、誰もが負うものだ。
傷のない人なんてきっといないから。その傷の癒し方、隠し方、消し方、忘れ方、は人それぞれ、そして癒せないし消せないし忘れられない日々を過ごすこと、それも人だから。
だから平山の物語が私の物語だと、私は感じた。

映画の中で平山さんはフィルムカメラで写真を撮っていた。誰かに見せるわけでもない、なんでもないその辺の植物や木漏れ日を撮っていた。
さっき、自分のスマホの写真フォルダを見てみたら、驚くほど何でもないものしか写っていなかった。笑

帰りに開いたばかりの大衆酒場で丸干しとおでんでお酒飲んできました。
よい日曜日だった。