外側から見てみたい

地球に生まれて暮らして早幾年

今年最後の献血

昨日、今年2度目の献血をしてきた。
できる時には献血をするようにしている。
私は適度な体格で血管も太くて丈夫、血液の比重もいつも問題なしなので、微力であるのは重々承知だが、できる限りは年2回の400ml献血を続けていきたいなと思っている。

最近よく考えることがある。どんなテクノロジーが進化しようとも人間がやらないとできないことの方が生活に直結している。
食物とか、医療とか、福祉とか、介護とか、人が人にかかわることとか、生活で必要物品を製造するすべての工程、人力こそが不可欠だ。
でも自分の仕事が人の生活に直結しているかというと、その辺りの程度としては低い方だ。
それなので、せめて献血くらいはしようと。

近頃は、人の楽しみで特権だったはずの意匠的なことを人工知能にやらせようとする人が出てきているので、例えば建物の意匠設計と構造計算などは機械がやっちゃう未来なのかもしれないけれど、人力がなければ建物は建たない。
数年前、八重洲の駅前のビル工事を見ながら通勤していたが、高い高い足場の上でクレーンで吊るされた大きな硝子を人が受け取っていた。
当たり前のことなのだが、このどデカい建物、人が組み立ているんだよなあ!と衝撃を受けた。
世の中のほとんどの物もは人間が手で作っている。
本当に色々な職業と労働の種類があるので挙げきれないけれど、例えば、少し前にテレビで見たのが、山奥の源泉を温泉宿街まで引くルートのメンテナンスをしている湯守の方々。皆さん、ほかに職業を持ちながら、湯守の仕事もこなしていた。
正直、某巨大IT企業を立ち上げた外国の人を教科書に載せるより、名もなき湯守の方々の仕事を子どもたちに伝えてほしい。

今年は何だか「労働」が価値のないものかのような意見を聞く機会が多かったせいもあり、自分にとっての労働や奉仕について、考えることが多かったように思う。
労働への対価が成立してこその労働だというのはもっともであるし、自分が受け取る対価の価値を上げたいがために自分は試行錯誤もする。
私は「仕事」が好きだ。働くことは楽しいと思う。
だから「労働は悪」のような端的な意見は私の心を暗くさせる。
労働はなぜこんなに憎まれる存在になってしまったのか。

こういう意識で生きるには、実は今の環境は非常に苦しい。
来年は働く喜びを共有できる環境へ行きたいというのが目標だ。
欲を言えば健康体の人間が献血をしたくらいで「めっちゃえらいね」とか言われない、自分にできるボランティアが当たり前の世の中になるといい。