外側から見てみたい

地球に生まれて暮らして早幾年

PERFECT DAYS

私の一日はまずロフトベッドの上で目を覚ます。
ロフトの下には2台の本棚と、本棚に入りきらない本が積んである。
起き上がって掛け布団を半分に畳み、片方に寄ったシーツを直してベッドを降り、そして雨戸を開ける。古い家なので大きな音が鳴らないようにそっと。
この時期はまだ真っ暗で星空が見える日もある。
斜向かいの家の東側の小窓に朝焼けが反射している日は朝がとても眩しく感じる。

私はよく上を見る。今日の空を見る。背の高い木を見る。ビルの屋上を見る。
よく晴れてた日、曇天の日、雨の日、風が強く吹く日、空や風景はいつも違う。
たまにこの空をずっと覚えていたい、そんな日があるけれど、時は過ぎるし明日はやってくる。

ヴィム・ヴェンダース役所広司を主演に据えて映画を作るというニュースを見た時からとても楽しみに待っていたPERFECT DAYSを観てきた。
そこには私が毎日見ている東京が描かれていた。美しかった。驚いた。私が生きている世界はクソかもしれないけれど、どうやら美しいらしい。

私は日本生れ日本育ちの日本人なので欧米人の抱く幻想にも似た日本が受け容れられないことがよくあるけれど、この映画にはそういった違和感がなかった。
とても私的な感想として、けっこう多くの人がこれは自分の物語だと感じるのではないかな。
私は、平山の繰り返す日々を観ていくうちに、これは私の物語だ、と思ってしまった。



___ここから映画の具体的なシーンのことを書きます。

このPERFECT DAYSという映画が、私の、そして今を生きる人々みんなの物語だと感じたシーンが、家出した姪っ子を迎えに妹が平山の家に来たところ。
映画の中では詳しいことは何も語られていなかったけれど、裕福な暮らしをしているらしい妹(運転手付きの高級車で来ていた)と、平山は疎遠になっていて、「もうほとんどわからなくなっているけれど、たまには施設にお父さんに会いに行ってあげて」という妹に、頑なに首を横に振る平山。
これだけのやり取りで平山の過去には家族との間に何かがあり、それが平山の傷になっているのだろうということがわかった。
いい加減な年若の同僚に怒気を抱くわけでもなく、毎日淡々と安定した心で過ごしているように見える平山が、本当は、心に傷を持っているということ。この傷は、人ならば人と関わる中で大なり小なり、誰もが負うものだ。
傷のない人なんてきっといないから。その傷の癒し方、隠し方、消し方、忘れ方、は人それぞれ、そして癒せないし消せないし忘れられない日々を過ごすこと、それも人だから。
だから平山の物語が私の物語だと、私は感じた。

映画の中で平山さんはフィルムカメラで写真を撮っていた。誰かに見せるわけでもない、なんでもないその辺の植物や木漏れ日を撮っていた。
さっき、自分のスマホの写真フォルダを見てみたら、驚くほど何でもないものしか写っていなかった。笑

帰りに開いたばかりの大衆酒場で丸干しとおでんでお酒飲んできました。
よい日曜日だった。